投獄された幕末の偉人 第2弾「吉田松陰」

オタク話

幕末(江戸幕府〜明治政府への転換期)という日本の過渡期において、藩や個人それぞれが国や藩が取るべき行動について考え、それぞれが持つ多様な考えのもと行動していました。

自身の所属する藩と自身の考えが対立した志士たちの中には、藩を飛び出し脱藩浪人として政治の中心地である京で活動する人もいれば、藩内の意見を変えようと奮闘した人たちもいました。

脱藩するのも、藩に残って戦うのも、まさしく命がけ。

考えを主張して投獄されることもあれば、幕府や藩と意見が合わず命を狙われることもしばしば…。

このシリーズでは、そのような時代の動乱の最中に獄に入れられた偉人たちをご紹介します。

前回は投獄された幕末の偉人として「武市半平太」をご紹介しました。

今回は長州藩(現在の山口県)の吉田松陰をご紹介します。

吉田松陰

【人物概要】
幕末の尊王論者、思想家。長州藩士。杉常道の二男。名は寅次郎。吉田家の養子。ペリー浦賀再来の時海外密航を企て失敗し、萩の野山獄に入れられた。出獄後の安政三年(一八五六)玉木文之進が創設した松下村塾を継いで、尊王攘夷運動の指導者を育成した。安政の大獄で刑死。天保元~安政六年(一八三〇~五九)
“よしだ‐しょういん【吉田松陰】”, 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-01-05)

30(満29)歳という若さで亡くなりながらも、松陰死後活躍する尊王攘夷運動の主要人物たちの師として幕末の火種となった吉田松陰。

人生で2度投獄され、命を尽くして国を変えようとした彼の生涯について見ていきましょう。

らんまる
らんまる

最初は真面目に書こうとしてたんですが……。松陰先生のあまりのクレイジーっぷりに途中から文が乱れますので、真面目な文章が読みたい人はここでブラウザを閉じることをオススメするぜ……!!

「神童」として勉学に励む

松陰は、1830(天保元)年に長州藩(現在の山口県)の萩城下・松下村に産まれました。

父の杉百合之介は家禄26石(現在の金額に置き換えると年収300万前後?)の下級藩士だったため、その金額で家族全員を養うことは難しく(松陰は6人兄弟の次男で、ご両親や祖父母も含めるとかなりの大家族です)、農作業をしながら暮らしていたそうです。

5歳の時、叔父が継いでいた兵学師範を勤める吉田家の養子となります。松陰は熱心に勉学に励み、9歳から藩校明倫館の教授見習いとなり、11歳の時には藩主・毛利敬親の前で講義を行なうほどの神童に育ちました。

諸国遊歴

19歳で独立の師範となり、20歳で『水陸戦略』という、「欧米の国々による東アジア侵略の状況を独自に分析し、三方を海に囲まれた長州藩の海に対する防備の必要性を訴えた」書物を書きました。それが藩政府に認められたことがきっかけで藩の上役とともに沿岸防備の視察を行う機会を得、実際に見て情報を得ることの大切さを感じることになります。

沿岸防備の視察を経て書物だけでは得られない知識があることを実感した松陰は、その後全国各地を旅し、旅先で学者や医師、剣客や武士など、あらゆる人との弁論を通して知見を広げていきました。

今ほど簡単に旅行ができる時代ではなかったにもかかわらず(藩からの許可は必要だし移動手段はほぼ徒歩)、21歳で水戸・九州(長崎・熊本など)、22歳から23歳にかけては江戸・東北(会津・仙台・盛岡・弘前・佐渡など)を旅しており、彼の知的好奇心がどれほどのものだったかが分かります。

旅装束の吉田松陰(松陰記念館にて、筆者撮影)

1851(嘉永4)年4月、旅の中で知り合った友、宮部鼎三・江幡五郎との約束を守るため、藩の許可を待たずに出立。これが「脱藩」となり、萩に戻った際に家禄召し上げ・史籍剝奪の処分を受けることとなります。

当時、藩の許可を得ずに藩を出ることは大罪でした。
「家禄召し上げ・史籍剝奪」はすなわち、食い扶持も身分も失うということ。

友との約束を守るために脱藩するという時点でクレイジーですが、脱藩の身でありながら道中筑波山に登ったり、笠間藩の藩校で突如講義を行なったりと常人の枠には収まらないクレイジーっぷりには圧倒されるしかありません。
(松陰関係の本読んでると「どうしてそうなった」「そうはならんやろ」というぶっ飛びエピソードにあふれててめちゃ楽しいです。だんだん癖になるんだなぁこれが)

常人にとっては終わりと言っても過言ではない状況に追い込まれていますが、ただでは転ばないのが我らが松陰先生。

長州藩士の籍と兵学師範としての地位は失ったものの、松陰の才を惜しんだ藩主毛利敬親の恩情によって10年間の修行が許され、学問的に自由な立場となりました。

ペリー来航と一度目の投獄

藩主敬親の恩情を受け、松陰は諸国遊学を再開。

1853(嘉永6)年6月、松陰24歳の時にペリー艦隊が下田に来航します。

これを受け、攘夷を目標とする松陰は洋諸国に対抗しうる知識を現地で身に着けるべく、ペリー艦隊を通じて渡米する計画を立てました。(やっぱぶっ飛んでる)

夜に小舟を使って艦隊に忍びこむことには成功しましたが(マジかよすげぇな)、アメリカ側に拒否されたことで計画は頓挫してしまいます(そりゃそう)。松陰の渡米計画に繋がる荷物が番所に届けられていることを知った松陰は自首し、江戸へ護送されたのち野山獄へと収監されることとなりました。(本当にぶっ飛んでる)

伝馬町獄跡/東京都中央区(筆者撮影)

余談:この時ペリーは幕府と和親条約を結んだばかりだったため、幕府との間に問題が生じることを懸念して松陰の願いを断ったのですが、松陰の強烈なアプローチが脳から離れなくなったペリーは副艦長を通じて松陰の行方を探させ、江戸へ護送されたとの報告を受けると幕府に対して寛大な処分を求める申し入れを行いました。

ヨシダショウイン……。 オモシレー男……。

野山獄での生活

野山獄での生活は1年2か月にも及びました。

「仮令獄中にありとも、敵愾の心一日として忘るべからず。苟も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず」と、獄中にあっても己の目的を見失わず、在獄中に618冊もの書物を読み、数々の著作を遺しました。

獄中でも勉学を続けるかたわら、囚人たちの得意分野ごとに囚人たちを講師として勉強会や読書会を開催し、松陰自身は孟子の講義を行いました。生き甲斐を失っていた囚人たちは活力を取り戻し、松陰の努力で8人の出獄が認められました。松陰自身も周囲から「これ以上獄に入れておいていい方ではない」という周囲の後押しから自宅謹慎となります。

現存する吉田松陰の自宅(松下村塾)筆者撮影

松下村塾の日々

自宅謹慎となった松陰は、庭へ出たり家族以外の者と会ったりすることは禁じられていたたため、3畳半の自室で過ごしていました。そんな中家族からの提案で、獄中で行なっていた「孟子」についての講義を家族や親類に向けて行なうことになります。初めは親族たちにだけ行っていた講義でしたが、評判を聞きつけた青年たちが続々と集まり、塾の増築を行ないながら多い日には30人が集まるほどの賑わいを見せるようになります。

松陰は塾生たちの長所を見抜き、それぞれの個性を伸ばす教育を行いました。塾生たちの中には尊皇攘夷運動の中心人物であった久坂玄瑞や高杉晋作、のちに初代内閣総理大臣となった伊藤博文などがいます。

再現された松下村塾の様子(松陰記念館/筆者撮影)

松下村塾と吉田松陰の存在は、萩という土地から数多くの指導者を輩出することに大きく貢献したと言えるでしょう。

2度目の投獄と安政の大獄

朝廷に対し無断で通商条約を締結した間部詮勝の殺害計画を松陰が藩に進言したため、危険思想であるとして再び野山獄に収監されることとなります。

5か月後、安政の大獄で処刑された梅田雲浜との関係を疑われて幕府の命令で江戸に送られ取り調べを受けることになった際、松陰はむしろこれを好機として取り調べの場で間部詮勝殺害について供述しました。

雲浜との関係については不問とされましたが、老中殺害計画が幕府に認められるはずもなく… 松陰は死罪を言い渡され、1859(安政6)年10月29日、小伝馬町の刑場にて斬首に処され、その命を終えました。

吉田松陰の死後

松陰は罪人として処刑されたため墓を建てることすら許されていませんでしたが、弟子たちは江戸から松陰の遺髪を持ち帰り、墓を建て、建立者として自分たちの名前を墓前の石灯籠・花筒・水盤の前面側面に刻みました。

吉田松陰墓所(筆者撮影)

松陰の死後、弟子たちが松陰の思想を受け継ぎ、命を落としながらも倒幕運動、明治維新の中核となって歴史を動かしていきます。

おわりに

松陰記念館前に設置されている高杉晋作・吉田松陰・久坂玄瑞の像。高杉・久坂は松下村塾の双璧と呼ばれた松下村塾の門下生である。(筆者撮影)

駆け足にはなってしまいましたが、30歳(満29歳)で生涯を閉じた吉田松陰の波乱万丈な人生をご紹介しました。

吉田松陰について、著作の言葉も交えながらもっと深くご紹介したい気持ちもあるのですが…
今回は吉田松陰を初めて知る人に向けた簡単な内容にするぞという当初の決意を貫いてこの辺りで締めくくりたいと思います。

常人からは狂気としか思えない松陰の行動の数々の一つに膨大な著作を遺したことがあげられるのではないかなと常々思っているのですが、数ある著作の中でも私が一番好きなのは処刑を控えた松陰が塾生たちに思いを託して遺した『留魂録』です。初めて読んだ時には誠実かつ切実な文章に涙をこらえきれず、「この時代、今を生きる私は何をすればいいんだ…!!」と自分の生きる意味を切実に求めずにはいられませんでした。

あと何より吉田松陰の死後、松陰の思いを継いで幕末をひっくり返す熱い門下生たちについても本当はもっと語りたかった…!!!!本当に長州藩の熱さ・苛烈さが大好きなので、これを機に少しでも興味を持っていただけたら嬉しい限りです。

それでは今回はこの辺で!

また次回の記事でお会いしましょう~!

(P.S. 第三弾が最後になる予定なのですが、誰について書くかめちゃくちゃ迷っています。そしておそらく、またしばらくは幕末以外の記事が続きます!御心の時に続きが出ることでしょう!!)

本記事を書くにあたり参考にした書籍は下記の通りです。

【参考文献】
『二十一回猛士(吉田松陰)』[山口の歴史シリーズ]ザメディアジョン、2011年
『維新の先覚 吉田松陰』山口県立山口博物館、1990年初版、2016年十版
『松陰読本』萩市教育委員会、1975年初版、2019年二十八版

最後まで読んでくださりありがとうございました!

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