投獄された幕末の偉人 第1弾「武市半平太」

オタク話

こんにちは~!
もう夏至を過ぎたことに驚きを隠せない、ビバ☆らんまるです。

さてさて…
これまで「オタク話」というカテゴリでは漫画やアニメの話題しか出してきませんでしたが、じつはこのらんまる、歴史オタクでもあるのです(◦ˉ ˘ ˉ◦)

らんまるという名前から推測して「戦国オタクか?」と思ったそこのアナタ!
ご期待に沿えず恐縮ですが幕末オタクです!!!

さてさて…
昨今の摂理の状況を見て、幕末オタクの私はこのテーマで記事を書くことを決意しました…

それが本記事のタイトルでもある「投獄された幕末の偉人」について。
(「投獄された幕末の偉人3選」というタイトルにするつもりだったのですが、めちゃくちゃ長くなりそうだったので人ごとに分けて投稿することにしました。あと個人的に「偉人」という言い方はあまり好きじゃないんですが、そこについて書くとややこしくなるので今回は触れません( ˘–˘ ))


幕末という日本の転換期において、全国各地様々な場所で身分や立場を問わず多くの人々が国や藩が取るべき行動について考え、その多様な考えのもと行動していました。

自身の所属する藩と自身の考えが対立した志士たちの中には、藩を飛び出し脱藩浪人として政治の中心地である京で活動する人もいれば、藩内の意見を変えようと奮闘した人たちもいたりとさまざま…

脱藩するのも、藩に残って戦うのも、まさしく命がけ。

今日はそんな幕末の偉人の中から、第1弾と称して「武市半平太」をご紹介します。

ちなみにアイキャッチ画像はどれも武市半平太で、左から「公文菊僊画武市半平太 高知県立歴史民俗資料館蔵」、「『少年浜口雄幸』より武市瑞山肖像」、「高知駅前 武市半平太像(筆者撮影)」です。
(武市は生前撮影された写真がなく、本人の書いた自画像か後世の人々が制作した絵や彫刻からその姿を想像するしかありません。)

武市半平太(武市瑞山)

人物概要】
幕末の志士。名は小楯。通称、半平太。瑞山は号。土佐国(高知県)の人。一藩勤王を目標として、文久元年(一八六一)土佐勤王党を組織。藩の主流吉田東洋らの公武合体論を退け、尊攘論を説く。同三年の政変で藩論が保守に変わると、切腹を命じられた。文政一二~慶応元年(一八二九~六五)
“たけち‐ずいざん【武市瑞山】”, 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-12-22)

高知市菜園場町にある武市半平太邸跡及び道場跡(筆者撮影)

武市は文武両道の秀才として知られており、江戸の三大道場にも数えられる鏡新明智流の桃井道場では塾頭を務めて塾生の風紀を正し、妻との間に子どもが恵まれなかったことを理由に送り込まれた女中たちにも一切手を付けず、身分制度の厳格な土佐藩内においても真っ向から自分の考えを進言するような、実直の一言に尽きる人でした。

そんな彼がなぜ投獄されることになったのでしょうか。

「土佐勤王党」の結成から吉田東洋暗殺まで

武市は天皇を敬い外国を排除することを思想とする尊王攘夷論者でしたが、当時先代藩主に重用され藩内の改革を推し進めていた吉田東洋は開国・公武合体を唱えていました。

武市はその状況を打破し藩を挙げて尊王の志を成す「一藩勤王」を実現するべく土佐勤王党を立ち上げ、土佐勤王党は最終的に192名が加盟する一大組織にまで成長します。

勤王党の存在を無視することができなくなった藩の上層部は武市と話し合いの機会を設けますが、武市を格下と侮り、藩論を覆そうとはしませんでした。

武市は最後まで対話による平和的解決を望んでいたものの、「一刻も早く東洋を政治から退かせるためにはもはや暗殺しかない」という意見が党内で湧き上がり、東洋排斥という目的を同じくする上層保守層の後押しもあったことから、武市は吉田東洋暗殺に踏み切ることになります。

文久二年(一八六二)四月八日、土佐勤王党の那須信吾らによって吉田東洋暗殺が決行されました。

吉田東洋(1816~1862)

吉田東洋暗殺以後

吉田東洋暗殺後は武市の推し進める尊王攘夷論が藩論となり、土佐勤王党員らは政治活動を活発化させていきます。勤王党結成以前に目標としていた藩主を擁しての入京も叶い、藩内における身分も上昇するなど、順調に事は進んでいきました。

そんな折、京で事件が起こります。

1863(文久3年)年8月18日、会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派によって、長州藩を主とした尊攘派が尊攘運動の拠点京都から一挙に追放されるというクーデター(八月十八日の政変)が勃発したのです。

この事件によってそれまで京で勢いを増していた尊攘勢力は一気に力を失うこととなり、反対に尊攘派である武市への不満を燻ぶらせていた容堂は土佐勤王党の弾圧を開始します。

翌月の9月21日、武市は不審の筋ありとして捕らえられ、その日のうちに牢屋入りとなりました。

獄での審問

証拠不十分のため審問は難航し、武市は未決のまま1年9か月の歳月を牢獄で過ごすことになります。

本来であれば外部とのやり取りは禁じられていましたが、武市の人となりに感銘を受けた牢番たちが武市を慕い始め、獄内にいる同志たちや外部とのやり取りが可能になりました。

武市は上士と呼ばれる土佐藩内において身分の高い武士だったため拷問を受けることはありませんでしたが、武市と共に捕らえられた土佐勤王党員らは死者を出すほどの激しい拷問を受けることとなり、拷問による自白を避けるため服毒自殺をするものも出るほどでした。

そのような拷問にも耐えた党員たちでしたが、ある人物が捕縛されたことで状況が傾き始めます。

武市自身が獄中で書いた自画像

岡田以蔵の自白

その人物とは、「人斬り以蔵」と恐れられた岡田以蔵。

以蔵は10代前半から武市の道場に通い、武市の修行にもいつも同行していた人物で、土佐勤王党にも加盟していました。

武市が肉親のように面倒を見ていた以蔵ですが、武市が尊攘運動に追われ忙しくなってきた文久3(1863)年のはじめに行方をくらまし、武市や土佐勤王党とは別行動をとるようになります。

そうして戸籍も武士身分も失い無宿者となっていたところ、京で不法行為を行なっていたために捕縛され、京都町奉行所による判決を受けたのち土佐藩へ引き渡されました。

以蔵の自白によって新たな逮捕者・自白者を出すこととなり、停滞していた審問に決着がつくこととなります。

判決内容

岡田以蔵を含め自白をした者たち4人は斬首、以蔵の自白内容に整合性が認められず決定的な証拠がなかった武市は、以下の罪状で切腹を申し渡されました。

①徒党(土佐勤王党)を結び、
②京では高貴の方(中川宮朝彦親王)へ意見し、
③老公(山内容堂)へ非礼を申し上げた

これらはすべて武市が藩主である容堂公に対して忠義を尽くした結果とも言えるのですが、それらは不敬行為とされ、断罪されることとなったのです。

壮絶な最後

慶応元年(1865)閏5月11日、最後は三文字切りの見事な切腹をして果てました。

通常の切腹は横一文字にみずから腹を切るところを介錯人が後ろから首を打ち落としますが、武市が行った三文字切りは三度腹を切るという並大抵の精神力では行うことのできない切腹だと言われています。

高知市帯屋町にある武市瑞山(半平太)殉節の地(PhotoACより)

おわりに

高知駅前に設置されている武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎の像(筆者撮影)

土佐勤王党を立ち上げ、暗殺という手段で藩政を覆し、最後には投獄されたのち自分の右腕とも言える以蔵の供述によって死刑に追い込まれるまでの流れを簡単にご紹介しました。

暗殺を指示した立場ということもあり、作品によっては黒幕・悪役として描かれることも多い武市ですが、個人的には国や故郷を想う彼の気持ちに偽りはなかっただろうと思っています。
(できる限り事実だけを書いて主観が出ないようにしようとしたのですが、書いた内容を見て情報の取捨選択からも書き手の考えが伝わってしまうものだなぁと感じました( ˘ω˘ ; ))

記事を読んでくださった方の中には「そもそも以蔵が人斬りになったのは武市が命じたからだろ!」とか、「拷問されなかったからって最後までだんまり決め込みやがって!」「結局は人殺しのテロリストだろ!」と、読みながら怒りを募らせた方もいらっしゃるかもしれません。

そういった考えを否定するつもりはないので、この記事はあくまでも一つの見方として受け取っていただければ幸いです。

ちなみに武市半平太を描いた作品だと、黒江S介氏の「サムライせんせい」という漫画がオススメです。
悩みながらも以蔵や自分自身と向き合う等身大の武市の姿が描かれていてとても素敵な作品ですので、ぜひ読んでみてください(*^^*)

最後まで読んでくださりありがとうございました!
第2弾もお楽しみに!

本記事を書くにあたり参考にした書籍・サイトは下記の通りです。

【参考文献】
松岡司『シリーズ・実像に迫る 008 武市半平太』戎光祥出版、2017年
入交好脩『武市半平太ある草莽の実像』中公新書、1982年
松岡司『正伝 岡田以蔵』戎光祥出版、2014年

“はちがつじゅうはちにちのせいへん【八月十八日の政変】”, 国史大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-01-03)
“やまうちとよしげ【山内豊信】”, 国史大辞典, JapanKnowledge,
https://japanknowledge.com , (参照 2023-12-23)
“せっ‐ぷく【切腹】”, 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-01-12)
“なかがわのみや-あさひこしんのう【中川宮朝彦親王】”, 日本人名大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2024-06-29)

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