ハレルヤ〜
ビバ☆らんまるです🌟
タイトルの通り、初めて礼拝に参加してから丸7年が経ちました。
7年… そう!
キリスト教では「7」という数字が非常に大きな意味を持ちます。
なぜなら聖書の創世記に、以下のように書かれているからです。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
創世記 2章2-3節 口語訳
神様が6日間かけて世界を創造して7日目に休まれ、「第七日を祝福して、これを聖別された」ため、「7」は完全を表す特別な数字とされているんですね。
そんな「7」年が過ぎ、信仰も「完全」になった… と言いたいところですが!
まだまだ完全にはほど遠いらんまるであります_:(´ཀ`」 ∠):
(70年後には完璧になっていたい!笑)
とはいえやはり、信仰を持って7年という月日を無事に過ごせたことは大きな意味を持っていると思います。
あっという間の7年だったけれど、「濃い」という一言では言い表せないたくさんの変化がありました。
その全ては書ききれないので、今日はその中から代表的な変化を3つ取り上げたいと思います。
教会に通い始めて変化したこと3選
①学歴コンプレックスからの解放
私は元々地方の「自称進学校」的な学校に通っていたので、「国公立信仰」と呼ばれる国公立が全て!!!な価値観のもと高校生活を送っていました。
その学校の中で比較的上位の成績だったこともあり、「絶対に旧帝以上の大学に入る」ということを目標にして勉学に励んでいました。
現役受験に失敗し浪人生活を送っていた時も「どうせ死ぬのにこんな頑張って意味があるのか」と思いながら、周りに落ちぶれたと思われたくなくて見栄のためだけに勉強していました。
しかしながらそんな姿勢で成績が上がるはずもなく…
志望校判定もガッツリE判定。
浪人生活も夏期講習に差し掛かったころ、進学の相談に乗ってくれていた方(教会に通っているメンバー)に「最近調子はどうですか?」と聞かれて「どうせ死ぬと思うと何もやる気が起きません」と返したことがきっかけで御言葉を聞きはじめました。
御言葉を聞いていくうちに「死んだら終わりじゃない」「神様と努力したら努力は無駄にならない」と感じるようになり、それからは勉強にも集中して打ち込めるようになって志望校判定も入試直前にはB判定にまで上昇…!!
残念ながら志望校には合格できませんでしたが、
今思うとこれがよかった!笑
私が進学した大学はすごくのびのびした学風というか、学歴コンプレックスを抱いている人間が極端に少なく、精神的に余裕のある生徒が多い大学だったんです。
マイペースで落ち着いている子達と友達として過ごす中で、学歴コンプレックスを抱いて卑屈になる必要なんてないんだなと思えるようになりました。
私の場合は(ココ重要)、自分の願い通り志望校に行っていたら、空っぽの中身の外側を学歴で固めて安心して、学歴が自分より低い人を見下して… そういう呪縛からなかなか逃れられなかったと思うので、神様が私にとって一番良い学校に入れるようにしてくださったんだと感じています。
もちろん高学歴大学出身で学歴コンプレックスを抱えていない方も大勢いらっしゃいますし、高学歴大学に籍を置くことが御心の方もいらっしゃるので、あくまでも私にとっての話です。
有名な聖句を一つご紹介します。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると 主は言われる。 天が地よりも高いように、 わが道は、あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ書 55章8-9節 口語訳
この聖句の通り、神様はいつも思ってもみないところから祝福を与えてくださり、よい変化ができるよう私を導いてくださっているということを、大学以外のところでもしばしば経験しました。
以前の私にとっては世間的に見て良い大学に入ることが唯一の道でしたが、今後の人生において学歴以上に大切な気づきを得る環境をくださった神様に心から感謝します。
②家族仲の改善
プロフィールに書いているのですが、私は父と母がそれぞれ別の新興宗教に所属する宗教2世として育ちました。
宗教2世としての経緯はこちらの記事をご覧ください💁♀️
他宗教2世から見た摂理ー新興宗教と共に育った私 | キリスト教福音宣教会(摂理)RIOブログ CGMNAVI (providence-blue.com)
ご想像通りといいますか、両親が別の新興宗教をやってる家なんて家族仲が良いはずもなく…
父と母はいつも喧嘩していましたし、小さい頃は母から体罰として叩かれたり怒鳴られたりもしばしばあって、同時期に学校でもいじめられていたため「どこにも居場所がないな」と感じていました。(文字通り自分の部屋もありませんでしたし。笑)
大学に進学して上京してからは両親との接点が少なくなったため、表面的には以前より落ち着いていましたが、会うたびに口論になっていました🥲
大学入学の少し前から教会に通い始めていたので、聖書にも書かれている「父母を敬うこと」と向き合わなければならないと思いつつ、「なぜ私が両親に良くしないといけないのか?」と両親に対して敬う心が持てませんでした。
いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』
ルカによる福音書 18章20節 口語訳
神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
マタイによる福音書 15章4節 口語訳
死??!?!!
両親敬わなかったら「死」??!!?!?
しかも姦淫・殺し・盗み・偽証と並ぶレベルの罪なのか‥‥と、当時の私は非常に落ち込みました。
そんな問題山積み貧乏苦学生だった私を、伝道してくださった方(浪人時代進路相談に乗ってくださっていた方)がしばしば自宅に招いて食事を御馳走してくださいました。
そのご夫婦といろいろなことをお話しする中で、
「父も母も不完全な家庭で育って正常な愛し方を知らなかったけど、それでも彼らなりに愛そうとしてくれていたのだな」と考えられるようになりました。
それまでは本当に両親が憎くて、憎しみバーサーカー状態だったのですが、そう理解してからは両親との嫌な思い出がどこか客観的に感じられるようになりました。
(憎しみを抱き続けていたところから、なんかこう「スンッ・・・」と冷めたと言いますか)
今でも両親と会って話すときや、両親が新たなやらかしをして私に被害が及んだときは怒りがこみあげてくることもあります。
完全に憎しみが消えている訳でもありません。
昔されたことで未だに許せていないことも残っています。
それでも、御言葉を学ぶ前よりはずっと気持ちが楽です。
キリスト教を伴天連と呼び馬鹿にしていた父ですが(江戸時代の方?)、今は自分の所属していた団体から離れ、私の通う教会のイベントやビギナー向けの礼拝に顔を出してくれていますし、父の宗教の祭壇があった部屋は私の部屋になりました。笑
宗教好きを公言しているのにキリスト教だけは嫌いだと言っていた母も、キリスト教が嫌いな理由は弟子たちがイエス様を守れなかったと思っているからだということが分かりましたし(意外と熱い思いを持っているのだと知ってびっくりしました)、教会のイベントには父と一緒に遊びに来てくれています。
摂理に来る前までは、家庭の問題は一生解決しないと思っていました。
少しずつではありますが、家族の問題が解かれる道を神様と共に進めていることに心から感謝したいです。
③自分ルールを他人に押し付けなくなった
小さい頃から妙にこだわりの強いタイプで、特に「正しくあること」が自分にとってものすごく大切なことでした。
その「正しさ」はあくまでも自分にとっての正しさなのですが、そこに気づくまでに少し時間がかかってしまったなと思います。
教会に通うようになる前は、自分の決めた正しさのレールを自分が外れることがないように必死だったし、無意識のうちに他人にも同様に正しくあることを求めてしまっていました。
いらだちの対象は、社会のルールを守らない人間、時間を守らない人間、努力しない人間、という大きなくくりから…
小さいところだと、改札通る時に立ち止まる人、歩く時に手の振りが外に大きく広がる人、口が半開きの人…
もう本当に世のあらゆる人間に敵意剥き出しで、常にイライラしていました😂
今思うと、以前は 自分に課しているor自分に課されてきたルール を他人も守るのが当然だと思っていて、そうしていない人間を見るたび苛立ちを感じてしまっていたんだと思います。
かなり偏った思考の持ち主でしたが、教会に通うようになってからは「自分ルールを相手に押しつける必要もないし、相手が何してようが自分には関係ないな。自分は自分、他人は他人」と考えられるようになりました。
そのように考えが変わった理由を考えてみたのですが、
聖書に書かれている御言葉が1番大切な判断基準になったから
だと思います。
聖書には「〜しなさい」「〜するな」という言葉がたくさん出てきます。
その言葉を判断基準の1番上に置くことで、今まで並列に重要視していた細かいマイルールに順序ができました。
聖書に「改札を通る時立ち止まってはいけない」とか「口を半開きにするのはだらしないからやめなさい」とは書かれてないですもんね。笑
神様から見た重要度という観点が追加されたことで、それまで固執していた小さなマイルールに対して「別に重要なことじゃないな」と感じられるようになったんだと思います。
イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
ヨハネによる福音書 8:31-32 口語訳
この御言葉の通り、本当に御言葉でしがらみから抜け出せたなと思います。
もちろん段階的に少しずつの変化でしたし、まだまだ気づかずに持っている自分ルールも残っているとは思いますが、これからも少しずつ自分の認識を変化させていきたいです💪
おわりに
教会に通うようになってからいろんな「変化」を経て、少しずつではありますが「成長」してきた経緯(いきさつ)をご紹介しました(*^^*)
摂理に来る前は聖書を読んでも全く理解できず「意味の分からない経典」としか思っていなかったのですが、鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師が聖書についてはっきりと伝えてくださったので、摂理に来てからは聖書の御言葉は自分に該当するものなんだと分かって自分の生活の中で少しずつ実践できるようになりました。
まだまだ頭で理解していても実践できていないことや、御言葉に合わせて直していきたいことはたくさんありますが、少しずつでも変化できていることが本当に奇跡というか… 神様を信じるようになっていなければ絶対にできなかったことなので、教会に通うようになって本当に良かったなぁと思います😊
ここまで成長の機会を与えながら導いてくださった神様、イエス様はもちろん、御言葉をいつも分かりやすく伝えてくださる鄭明析牧師、伝道してくださった方々、御言葉を伝えてくださった方々、一緒に信仰生活を送っているメンバーたちに感謝を伝えたいです。
今回書ききれなかった変化したこともたくさんあるので、そちらはまたの機会に!
長い記事をここまで読んでくださりありがとうございました✨